白鳥町にて

 長良川周辺

1991/7~1993/6岐阜県郡上郡白鳥町に居た。長良川、鮎、アマゴ、サツキマス、郡上踊り、明宝ハム。泣きじゃくるモモ(二代目)タマ(初代)を連れ豊科を後にして安房峠を越え高山で醤油スープの濃いラーメンを食い清見村、日本海と太平洋への分水嶺がある荘川村、高鷲村を過ぎると白鳥町。この時猫は泣き鳴き続けると声が出なくなる事を初めて知った。回復に2,3日かかった。長良川が目の前に、釣り人も。事務所の運転手は皆鮎釣り、印刷屋と酒屋はアマゴ、電器屋は投網で上司はなぜか海釣り専門ときた。岩魚釣りはいなかった。ここでは岩魚は外道なのだ。ここは組合が厳しいと教えられ早速遊魚券を買い求めた。先ずは長良川本流。しかし釣れるはハヤばかりで10本に1本が小さなアマゴ。しかも9/10で禁漁。年も明けスキーをしながら2/1の解禁を待った。解禁前に20cm程のアマゴの成魚が放流。解禁日は先ず場所取り。都合の良い事に会社が長良川から20mの距離。その付近の放流アマゴの溜まり場を教えてもらい夜半には会社で待機した。3時、4時の真暗いうちから場所取りが始まった。私もしっかり確保し夜明けを待たずに竿を出す。釣れる。まるで釣堀だ。雪の川岸から釣っていたが夜が明けると皆川に入っていった。20本以上釣れた。すべて放流物。7時前には納竿。帰宅して朝食をとり出勤。机の上の卓上カレンダーの2/1欄に釣れた本数を書き込んだ。1ヶ月でどのくらい釣れるのか?翌日は7、翌々日は5と段々数は減りつまらなくなり止めた。所詮放流物。翌年の解禁には行かなかった気がする。それでも会社脇でのアマゴ釣りは続けた。禁漁後の秋口は銀化したシラメには感激した。キラキラ光って触るとウロコが手に残るのだ。本当にキレイだった。もちろんリリース。そんな中で忘れられないのがオオサンショウウオ。ある朝、いつもの場所に行くと浅瀬の川底に黒い何かが動いていた。オオサンショウウオだった。もちろん初めて。辺りを見廻すと5,6匹いた。近づいても逃げない。ゴム手をして一番大きいのに触ってみたがじっとしている。怖かったがそぉーと抱き上げた。じっとしている。手?の指が4本で内側はピンク、赤ちゃんの手のように柔らかい。「おーい、サンショウウオ、カメラ」と叫ぶと大勢集まってきた。同僚ばかりでなく近所の印刷屋や電器屋も。最初は怖がっていた人も私が抱き上げ撫でていると交代で触っていた。冬は冬眠中だが夏はその大きな一枚歯で指を噛みちぎる事もある怖い生き物で誰も近づかないそうだ。まったく知らなかった。そうこうするうちに町会議員をやっている電器屋が投網を持って来て楽しませてもらった。禁漁期間などどこ吹く風で。その後中日新聞の地方記者が来て話を聞かれ写真とコメントが小さく載った。

長良川本流、吉田川、馬瀬川と地元の人に連れられて行ったがまったく歯が立たなかった。私のすぐ横ですいすい釣り上げる。瀬を流し目印の小さな動きであわせるのだ。天然は違った。餌はシンパクという小さな川虫を使った。私は本来の釣りに戻り渓へ。渓のアマゴは岩魚釣りの要領で十分だった。内ヶ谷川、牛道川、前谷川、大洞川等、付近の川でアマゴを釣りテンプラや煮付けにした。この頃渡辺さんは名古屋に戻っていた。時々やってきては二人で出かけた。印象に残ったいくつかの渓。

 

 石徹白川(イトシロガワ)

長良川水系ではなく福井の九頭竜川の最上流部に位置する。昭和30年初期までは福井県石徹白村だった。冬季間の不便さ等から白鳥町へ合併。何とも不思議な雰囲気の村だった。下界から隔てられた高原の盆地にあって、村に入ると正面に白山信仰の白山中居神社があった。昔は村民全員が社人だったという。また村民の苗字が石徹白というのが多い。盲人テンカラ師の話もあった。何度目かに渡辺さんと行った時にこの神聖な村で楽しい過ちを犯した。支流の朝日添川に入った時の事。渓相が良く水量も有り帰りは上に林道が。30分程遡行すると急に釣れ出した。しかも25cm前後と型も最高。どのポイントでも釣れた。昼飯後「日曜なのに誰も居ないし入れ食いとは」「もう林道に出て本流の上流が見たいな~」と渡辺さん。「そうしましょう」林道に出る途中良さそうなポイントを覗くとゆらゆら泳いでいた。林道を下り村に近づいたところで「あれ~」何と禁漁区の看板が。急いで車に戻った。誰かに会ったような記憶もあるが咎めはされなかった。

 尾上郷川

尾上郷川は有名な御母衣ダム湖に注ぐ川。奥はかなり深い。初めて行った時は調査がてらで釣れなくても地図にある林道を一周する目的で行った。白鳥から荘川の蛭ケ野、156で御母衣、尾上郷川沿いの林道を行き一山二山越えて蛭ケ野というコース。尾上郷川の本流と分かれた付近からは大変な林道だった。途中竿を出すとアマゴが釣れた。そして釣り人にあった。酔っていた。私と同年代で岐阜から来たと。ビールを勧められ一本いただいた。彼のビクにはきれいなアマゴが10数匹いた。私が白鳥に来て間もない事やアマゴ釣りが難しいと話すといろいろ教えてくれた。長い竿が有利、ミミズは必ずミミズ通しで等。彼は酒パックを開けて飲み始めた。私は遠慮し蛭ケ野へ向かった。林道は更に悪路と化した。怖かった。彼は無事帰っただろうか。翌日は仕事と言っていた。本流も詰めてみたが残っている記憶は釣り終え帰る途中に50cmもある虹鱒がゆらゆら泳いでいたのを見た事くらいか。禁漁期間に安保ちゃんと散策に行った時に10cmにも満たぬアマゴを持った釣り師に会った気がする。やはりその格好は泥臭くはなかった。安保ちゃんとは清見村で合流し近くの渓を釣ったことも。雪の上から岩魚が見えたような。そうそうこの時フライ用品を一式揃えてもらった。

小芦倉谷
御母衣から156号を富山方向へ庄川沿いに行く。合掌集落を過ぎ富山県境の少し手前の右手に小芦倉谷はある。その先には大芦倉谷が。庄川を渡り車から降り藪漕ぎで。さほど時間はかからなかった。入り口が切り立っていた為か入渓者は少なかった。私は気に入り何度か行った。上流に10mを越える滝が有って魚止めかも知れぬ。その先は行かず終い。岩魚の型が揃っていて渓相も良かった。大芦倉谷はザラ瀬が延々と続き引き返した。

隣の福井県の九頭竜湖に注ぐ林谷で40cmオーバーのサクラマス?を2本上げた事が有ったがサツキマス釣りはやらなかった。薦められた鮎も。でも鮎は良く食べた。特に頭とわたを取り輪切りにした“せごし”は美味かった。この町には鮎の時期になると釣った鮎を買い取ってくれる店があり本業・副業としている人が沢山いた。ちなみに郡上八幡の吉田川の鮎は単価が高いそうだ。「本流のアマゴ一匹が支流のアマゴ十匹に値すると」言った名人、吉田の万さが亡くなったのはこの頃だった。また海釣りにもよく行った。知多半島の先端の師崎や敦賀の若狭湾へ。当然の如く長棟川へも数回行った。そして決して弱音をはかない高橋さん等と出会ったのもこの頃。